「地下鉄延伸 市が検討継続」「清田区への公共交通機関整備」

 こういう見出しの大きな記事が2018年11月22日の北海道新聞(札幌市内版)に掲載されました。

 札幌市はこの10年あまり「採算性がないので清田延伸は困難」という姿勢に終始してきました。現行の札幌市総合交通計画(平成24年1月策定)でも、市は地下鉄清田延伸について全く言及しませんでした。

 ところが、2018年11月15日、札幌市は同総合交通計画の改訂作業を進める改訂検討委員会交通部会に新たな資料を提出しました。その中で「地下鉄福住駅から清田まで公共交通の機能向上を検討していく区間」と明記し、地下鉄延長の検討を継続する意向を強調したのです。「公共交通機関の機能向上」とは、地下鉄延伸を想定していることを市は認めています。それが北海道新聞の記事になったのです。新しい札幌市総合交通計画は平成31年度末に策定する予定です。

 こうした市の動きに、清田区と豊平区の町内会連合会などでつくる地下鉄東豊線建設促進期成会連合会(牧野晃会長)から「大きな前進、大きな一歩だ」と期待の声が上がっています。

地下鉄東豊線清田延伸ルートと駅

 地下鉄は札幌の中心的な交通インフラであり、地下鉄駅は各地域でまちの中核になっています。しかし、清田区だけ札幌10区の中で地下鉄もJRもありません。

 札幌の街を人間の体に例えれば、地下鉄とJRはいわば骨格です。しかし、清田区だけは骨格がないのです。

北海道新聞の記事(2018年11月22日)

 このためバスターミナルができず、バス路線が使いずらかったり、市が進める「地域交流拠点」づくりも清田だけは形成されないなど、まちづくりに大きな支障が生じています。公共施設や大型商業施設も区内ばらばらに立地し、街づくりの計画などないかのような観を呈しています。

 地下鉄を清田方面まで伸ばすことは、かつて札幌市が長期計画にも載せていました。地域住民に約束していたことなのです。市が地下鉄建設を正式に表明していながら、未だに実現していないのは清田延伸区間だけです。

 地下鉄清田延伸計画はどんな経緯をたどって今日に至っているのか、今ではご存じない方も多くいらっしゃるので、ここにまとめてみました。

■地下鉄清田方面建設計画の誕生

 札幌市の地下鉄は、札幌オリンピック(昭和47年2月)直前の昭和46年(1971年)12月16日、南北線北24条―真駒内間で開業したのが始まりです。その後、東西線(琴似―白石)が開業し、さらに南北線(麻生まで)、東西線(新さっぽろまで)とも路線が延長されていきます。

 昭和50年代に入り、札幌市は人口がどんどんと増え、大量輸送交通網の整備が急務になります。当時の板垣武四市長は札幌市総合交通対策調査審議会(総交審)を設置して検討します。そして、昭和54年(1979年)12月、総交審は「地下鉄等の大量公共輸送機関の整備計画について」という答申を板垣市長に行います。

 内容は、「北・東線(第3線)(栄町―北野)と東西線(琴似―手稲東)を昭和70年(1995年)までに整備する」というものでした。

  「北・東線(第3線)」というのは、今の東豊線です。当時は、まだ東豊線という名称はありませんでした。「栄町―北野」と路線が示された「北・東線(第3線)」、これが地下鉄を清田まで建設する計画の源流です。

地下鉄を清田区まで建設する計画の誕生。北野地区まで伸びている。(昭和54年=1979年=札幌市総交審答申)

 札幌市はこの総交審答申を踏まえて「地下鉄50キロ構想」(南北線:麻生―真駒内14キロ、東西線:新さっぽろ―手稲東20キロ、東豊線:栄町―北野16キロ)という地下鉄建設方針を決めました。その後、札幌市はこの「地下鉄50キロ構想」に基づいて地下鉄を順次建設、整備し、現在、総延長48キロに達しています。この「50キロ構想」で、いまだに実現していないのは福住―清田区間だけです。

■清田延伸のルートと駅 当初は北野通

  昭和60年(1985年)8月、地下鉄清田方面のルートと駅が公表されました。札幌市高速鉄道調査専門委員会が板垣市長に答申した「札幌市における地下鉄次期整備路線の在り方について」という報告に記載されたのです。

昭和60年(1985年)に発表された東豊線延長路線のルートと駅。その後、想定ルートは国道36号線に変更

 東豊線の「豊水すすきの」以遠の駅は、「学園前」「豊平」「美園」「月寒中央」「福住」「共進会場」「月寒東」「北野」と明記されました。ルートは、福住駅先から左折して「共進会場」方面に向かい、北野通を通って「月寒東」「北野」に向かうというものでした。東豊線終点「北野」駅は、北野通と清田通の交差点付近とされました。今のホーマック北野通店あたりでしょう。

 さらに、完成目標はここでも昭和70年(1995年)とし、まずは「豊水すすきの」から「福住」までを建設するとしました。

■札幌市東部地域開発と一体の地下鉄清田延伸

 この昭和60年答申は、「地下鉄清田方面延伸と札幌市東部地域開発との関係」についても言及しており、大変注目されます。答申は次のように述べています。

 「平岡・里塚地域は、大規模プロジェクトである東部地域開発基本計画に基づき、新市街地としての宅地開発が進められており、既存の路面交通機関では増大するこれら輸送需要に対応できない状況にある」

 「このため、今後これから新たに発生する輸送需要に対処するとともに国道36号の混雑緩和を図るため、バス輸送を定時性の高い大量高速輸送機関である地下鉄輸送へ転換させ、地下鉄を主軸とした効率的な地区交通体系を確立することが、この地域の交通施策上における緊急課題となっている」

 札幌市東部地域開発基本計画とは、昭和49年(1974年)に札幌市が策定した地域開発計画で、当時、畑、原野、山林が広がっていた札幌東部地域1265ヘクタール(現在の清田区平岡、里塚緑ヶ丘、平岡公園東、厚別区上野幌など)を官民で開発し、住宅2万9000戸、人口11万人のニュータウンを建設しようというものです。

 これは当時、人口が急増する札幌にその受け皿をつくるという一大プロジェクトでした。当然、多くの人が居住する新しいまちが誕生するわけですから、「地下鉄を主軸とした効率的な地区交通体系」の確立が求められたわけです。つまり、東部開発と地下鉄延伸は互いにリンクする一体のものだったのです。

 しかし、この東部地域開発計画は完了し、現在、多くの人が居住する一大ニュータウンが清田区内に形成されましたが、一体であるはずだった地下鉄の清田方面延伸はいまだに実現されていないのです。

■札幌市長期総合計画に地下鉄延伸を明記

 札幌市は昭和62年(1987年)8月、東豊線の豊水すすきの―福住間の建設を国に申請しました。「50キロ構想」のうち残る東豊線福住―北野と東西線琴似―手稲東は申請が見送られました。

 当時の新聞報道によると、板垣市長(当時)は「現状では両線延長を同時申請すると双方とも遅れる心配があり、東豊線の福住までとしたが、両線の昭和70年完成をあきらめたわけではない」(北海道新聞:昭和62年9月1日)と発言しています。

 このときは申請を見送ったものの、板垣市長は清田方面延伸の姿勢を変えていなかったことがうかがわれます。

 そして、札幌市は昭和63年(1988年)3月策定の第3次札幌市長期総合計画に「東西線(手稲東方面)、東豊線(北野方面)の延長を推進する」と明記したのです。地下鉄清田延伸はついに札幌市長期総合計画に正式に載ったのです。

 札幌市議会でも市長や市幹部が「北野方面延長」を公言していました。こうした札幌市の動きを見て、清田区地域に家を購入、居住を決めた人は数多くいます。

■清田方面だけが取り残される

清田区内で、いろいろな所に張られているポスター

 その後、札幌市は「地下鉄50キロ構想」で残った2路線のうち、東西線琴似―手稲東を優先する方針を固めます(1991年7月)。

 「東豊線(北野方面)の建設を推進する」とした第3次札幌市長期総合計画でしたが、その第3次5年計画(平成8~12年度:1995年~2000年)では、札幌市は、地下鉄建設について「地下鉄東西線延長建設(琴似―手稲東)」と記載したものの、東豊線福住―北野の記載はありませんでした。

 ただ、当時の桂信雄市長は「順次、建設をしていく」と述べ、福住から清田方面への延長に含みを持たせる発言をしていました。

 しかし、平成6年(1996年)に策定作業を始めた第4次札幌市長期計画(平成12年=2000年スタート)では、とうとう地下鉄建設の記載は一切なくなりました。

 札幌市の長期計画に載せていた地下鉄延伸が記載されなくなった背景には、当時、バブル経済が崩壊し、巨額建設費と赤字の地下鉄建設に慎重論が台頭してきたことがあると思われます。平成9年(1997年)11月には拓銀(北海道拓殖銀行)の経営破綻などもありました。

■清田延伸ルートを北野通から国道36号に変更

 清田方面だけが取り残される状況を打破すべく、地下鉄東豊線建設促進期成会連合会は平成9年(1997年)9月、市長と市議会議長に要望書を提出しました。内容は以下のようなものでした。

1 延長計画路線を、従前の福住―北野間から、国道36号線経由で清田区役所周辺へ至るルートへ変更し、早期着手を望む。

2 札幌ドーム周辺国有地については、ドームを中心とした一大スポーツエリアとして整備することを望む。

 延長計画路線を従前の北野通から国道36号線に変更要望したのには、2つの背景事情がありました。一つは、清田区が平成9年(1997年)11月に豊平区から分区して誕生し、清田区役所が国道36号線近くに開設されることになったことです。もう一つは、国道36号線沿いに、2001年開業予定の札幌ドーム建設計画が進み、翌1998年に着工となる事情がありました。

 札幌市も、延長計画路線を国道36号線ルートに変更して検討することになりました。

■「清田区まちづくりビジョン」に地下鉄清田延長を明記

 平成9年(1997年)11月に豊平区から分離して誕生した清田区は、早速、区のまちづくりの方向性を示す「清田区まちづくりビジョン」の策定作業に入りました。清田区内各界の代表者でつくる「きよたまちづくり区民会議」を組織して検討し、さらに2度にわたる区民アンケート調査などをもとに、清田区は平成11年(1999年)3月、「清田区まちづくりビジョン2020」(目標年次2020年)を策定しました。

 この中で、清田区は「地下鉄東豊線は清田区民と区外の人々との流れをつくるための動線として、地域中心核(清田区役所付近)まで延長する必要があります」とはっきりと明記したのです。

「清田区まちづくりビジョン2020」に明記された地下鉄清田延伸構想

 そして、「清田区まちづくりビジョン2020」には、国道36号線を通るルート図を示し、終点の地域中心核「清田」のイメージ図には、地下鉄清田駅の絵が描かれたのです。

「清田区まちづくりビジョン2020」に掲載された地域中心核清田のイメージ図。地下鉄駅が描かれている

 新しく誕生した清田区は「地下鉄延伸」をまちづくり整備の核としてスタートしたことが、清田区が作成した「清田区まちづくりビジョン2020」からうかがえます。

■清田方面延伸論が再浮上

 清田区が誕生し、地下鉄延長を求める声が再び高まりました。桂信雄市長は平成11年(1999年)3月、20年ぶりに総交審(総合交通対策調査審議会)を開設しました。桂市長が諮問したのは①地下鉄など軌道系公共交通機関網の在り方②公共交通の利用促進策―の2点でした。

 この時の最大の焦点は「札幌ドームの建設、清田区の分区などの状況を踏まえ、地下鉄東豊線の福住駅以遠の延長の是非やルート、事業採算性」(北海道新聞1999年3月16日)でした。昭和54年(1979年)の前回総交審の「地下鉄50キロ構想」の中で、唯一積み残しになっていた地下鉄清田方面延伸の是非を真正面から取り上げたのです。

 この総交審は2年後の平成13年(2001年)4月、報告をまとめ、桂市長に答申しました。そこには清田延伸について「地下鉄の延伸に向けた検討を進めていくことが必要」「運営の効率化が図られた場合には、採算性は確保できる」とありました。「地下鉄清田方面延伸」に青信号を灯した内容でした。

 この総交審では、延長区間は「清田」までの国道36号線ルートで、総延長は4・2キロ。駅は「札幌ドーム」「東月寒」「北野」「清田」の4駅を置くとしました。事業費は1050億円。「累積黒字化年数は33年ですが、上下分離方式で運営すれば28年目で累積黒字達成できる」と試算しました。国の黒字化基準の30年をクリアできるとされたのです。

 このときの総交審は、地下鉄清田方面延長について、さらに次のように説明しました。

 「清田方面は人口も集積しつつあり、さらに後背圏での人口増加も見込まれるなど、地域中心核としてのまちづくりが必要になっている」

 「また、札幌ドームへのアクセス確保や、国道36号の清田方面から地下鉄福住駅に向かって発生する将来需要への対応も必要である」

 「軌道系交通機関の整備は、都心から清田地域中心核に向かって骨格軸が形成され、地域中心核の育成・整備に寄与するほか、札幌ドームへのアクセス手段としての役割も期待される」

 これは「地下鉄の清田方面延伸を早く進めなさい」と言っているに等しい内容です。

■一転、凍結へ

 平成13年(2001年)の総交審で、「清田延伸」の答申が出されましたが、その後、市長交代もあり、延伸の話は具体化しませんでした。やがて札幌市は「清田延伸の必要あり」の総交審の結論を覆し、「清田延長は無理」と180度姿勢を変更したのです。

 平成23年(2011年)10月、札幌市は清田区民センターで地下鉄東豊線建設促進期成会への説明会を開催し、「清田延長は困難」との考えを伝えてきました。その理由として、札幌市は「国の基準である『30年で累積黒字化』が出来ないから」と説明しました。

 そして、札幌市は翌平成24年(2012年)1月、札幌市総合交通計画を策定しました。ここには、地下鉄の延長計画は全く記載されませんでした。さらに、「交通基盤の骨格構造は、これからの都市活動を支えるうえで、大幅な拡充は要しない水準に達しています」とまで書かれています。

 「交通基盤の骨格構造」とは、地下鉄のことと思われます。清田区民からすれば、「地下鉄は大幅な拡充を要しない水準に達している」という認識は全く受け入れられるものではありません。「同じ税金を払っているのに不公平ではないか」。そんな声も近年、清田区では上がっています。

■秋元市長の登場

地下鉄東豊線建設促進期成会は毎年、札幌市長に地下鉄延伸を要望

 平成27年(2015年)、市長は秋元克広市長になりました。秋元市長は選挙公約で「冬季五輪・パラリンピック招致に合わせて、札幌ドーム周辺の国道36号線と羊ケ丘通りの間の土地に、選手村やメディアセンター等を設置し、その後の活用策(マンション、ホテル、商業施設等)も含めて地下鉄清田方面延伸を検討します」と主張して当選した市長です。

清田区民ふれあい夏まつりでは、毎年、地下鉄延伸がアピールされる

 秋元市長は当選間もない平成27年(2015年)7月に行われた「清田区民ふれあい夏まつり」に来て、開会式の席上で「地下鉄の延伸を含めて清田区の将来をしっかりと考えていきたい」と、はっきりと清田区民に宣言までしました。

 こうした秋元市長の発言に地下鉄東豊線建設促進期成会は期待を抱きました。しかし、札幌冬季五輪施設として考えていた選手村やメディアセンターを札幌ドーム周辺の国道36号線沿いに造る計画をいつのまにか撤回し、さらには日本ハムファイターズが札幌ドーム撤退を決定する事態にも至りました。

 地下鉄期成会は毎年、市長に地下鉄延伸の要望を行っていますが、ここ2年ほどの秋元市長の発言は「30年で累積黒字が達成できない」と、以前の市の慎重姿勢に戻りつつある感がありました。

 ところが、2018年11月15日、札幌市総合交通計画の改訂作業を進める改訂検討委員会交通部会で、市は地下鉄清田延伸を継続して検討する意向を示したのです。清田区民、沿線の豊平区民は、今、これに期待をかけ、その成り行きに注目しています。

■公営交通は採算性のモノサシだけでいいのか

 札幌市はここ十年余、地下鉄清田延伸は「30年で累積黒字化という国の基準を達成できない」という理由で「清田延伸は困難」としてきました。

 確かに、福住―清田間の採算性は厳しいと思います。では現在の東西線、東豊線は30年間で累積黒字になるのでしょうか。到底なりません。これは札幌市交通局も認めていることです。「それでも地下鉄は必要だ」という政治判断があって建設、開業したのではないですか。

 採算性は確かに重要です。しかし、公営交通は採算性というモノサシ1本だけで決めていいものでしょうか。地域の暮らしやまちづくり、都市設計、税負担の公平性、住民の福祉、札幌市がかつて正式に清田延伸計画を決めていた経緯など様々な観点から論じられるべきではないでしょうか。清田区と豊平区の町内会連合会などでつくっている地下鉄東豊線建設促進期成会では、このようなとらえ方をして、毎年、市長に「地下鉄を清田区へ」の要望を続けています。

(「延伸の経緯」は地下鉄東豊線建設促進期成会の資料を基に構成しました)

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