厚別区大谷地地区を流れる二里川。南郷通りと国道12号線に架かる橋のたもとに二里川の看板が立っていますが、北海道による「川の名の由来」の表記がどうも変です。

二里川の看板。川の名の由来を「二里塚の地名に起因」と書いている

 二里川の看板には次のように「川の名の由来」が書かれています。

「室蘭街道(現国道36号線)の里程で、札幌本府まで2里の行程である二里塚の地名に起因している」

 これ、端的に言って間違いではないですか。二里川と二里塚はまったく関係がありません。

二里川

 二里川は今では厚別区大谷地西4丁目から南郷通と国道12号線の下を流れて厚別川に合流するまでの長さ1.2kmの短い川です。しかし、以前は清田区美しが丘や平岡南公園付近の湧水を源流に、平岡地区のど真ん中を流れていました。

 平岡地区を流れていた二里川は、昭和50年代中頃から昭和62年までの宅地造成で埋め立てられ姿を消しました。その結果、今では大谷地西4丁目から厚別川合流点までの短い川になっています。

 一方、二里塚はどこにあったのでしょうか。国道36号線の現在の日糧製パンの前、北海道農業研究センター入り口付近にあったとされています。厚別区月寒東地区あるいは羊ケ丘地区です。近くには、「月寒東二里塚公園」(豊平区月寒東1条16丁目)という名称の公園があり、かつて付近に二里塚があった名残をとどめています。

 この付近を二里川が流れていたのなら、看板の通り「二里塚の地名に起因している」という説明でいいでしょう。しかし、二里川はそんなところは流れていませんでした。むしろ三里塚に極めて近い平岡地区を流れていたのです。

厚別川と三里川の中間、いまの平岡地区を流れていた二里川=大正5年(1916年)国土地理院の地図

 北海道開拓使は明治6年、室蘭街道(札幌本道、現在の国道36号線)を開削した際、札幌の創成川に架かる創成橋(南1条)を起点に1里(約4km)ごとに里程標(塚)を建てました。

 二里塚は今の農業研究センター入り口付近に建てられ、三里塚は清田区里塚の旧道つまり昨年の地震で大きな液状化被害が出た付近の旧道脇に建てられました。ちょうど三里川が流れているところです。

 三里川は、もともとはアイヌ語で「ラウネナイ川」(深いV字谷の川という意味)と呼ばれていました。三里塚が建ったことから「三里川」と呼ばれるようになり、地域名も三里塚となりました。さらに昭和19年に地名変更があり「三」をとって「里塚」となりました。

 埋め立てられる前の二里川は、三里川の500mほど札幌寄りを三里川と並ぶように今の清田区平岡地区を流れていたのです。豊平区の二里塚とはまったく関係のない方角です。

 では、どうして「二里川」などという名前になったのでしょうか。清田区の郷土史研究家の了寛紀明氏(元清田小学校長)は「三里川の少し札幌寄りを流れていたので二里川と単純に呼んだのではないでしょうか。二里塚とは関係ありません」と言います。

 この件について川を管理する北海道空知総合振興局札幌建設管理部事業課に問合せしましたが、明確な説明はまったく聞けませんでした。

 行政が建てる川の看板表記は、それが事実であると信じられ独り歩きします。かつて平岡地区を流れていた二里川は、今は埋め立てられて姿を消しています。しかし、昨年9月の地震ではかつての二里川沿いでも液状化が発生しました。

 この看板表記を放置しておくと、二里川はかつて二里塚があった豊平区月寒東方面から流れていた川との誤解を生みかねません。

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