札幌市が清田区の里塚霊園内の円形広場に新里塚斎場(火葬場)を建設する計画が、住民の猛反対に遭っています。

清田区内4か所で開いた住民説明会はどこも反対・反発一色だった=12月2日、羊ケ丘通町内会館
背景には、札幌市が現里塚斎場(昭和59年使用開始、里塚霊園の一番奥に立地)を建てた際に市が地域住民に約束した「地下鉄建設」などの条件を反故にしたまま、再び「里塚ありき」で新斎場を造ろうとしている市の住民軽視とも言えるやり方があるように思えます。

昭和59年(1984年)使用開始した今の里塚斎場(火葬場)
現斎場(火葬場)を里塚に造った昭和50年代当時の地域住民や地元町内会連合会は、どんな思いで今の里塚斎場の建設に同意したのか、苦渋の決断に至った当時の動き清田地区町内会連合会の昔の資料などから振り返ってみます。
札幌市は昭和50年(1975年)頃から、今の里塚斎場の建設を検討。市内18か所の候補地のうち里塚霊園内が最適地と判断し、昭和54年(1979年)7月、清田地区町内会連合会に「地域住民の了解を得たい」と申し入れました。
当時の清田地区町内会連合会は今の清田区全域をカバー(清田、真栄、北野、平岡、里塚、有明)する広域町連でした。
清田町連は、地域から強い反対運動が起きたことから、この問題を重要視し、取り扱いは「あくまで地域住民の総意に従う」として町内会長会議などで再三協議しました。
そして、翌昭和55年(1980年)6月、町連内に「火葬場に関する特別委員会」を結成し、検討を進めることになりました。
火葬場特別委員会の委員は14名で、清田地区全域から選出した代表が委員になりました。
委員会は同年7月から近隣町内会17町内会を対象に説明会を連日のように開催し、地域住民の意見を聞きました。
当然ながら無条件で受け入れられる施設ではなく、「火葬場は受け入れるべきではない」という反対意見が多数ありました。しかし、一方で「火葬場が無公害なら条件付きで受け入れてはどうか」との意見もあったとのことです。
結論がなかなか出せない中、当時の清田町連火葬場特別委員会は同年10月、最新火葬場の見学を実施。市川市斎場、船橋市斎場、霧ヶ谷斎場の3か所を見て回り、いずれも最新の施設で公害面の懸念は全くなく、施設の立派さに驚いて帰ってきたとのことです。
こうしたことを町内会長会議に報告、審議したところ、「条件によっては受け入れもやむを得ないのではないか」との結論に達しました。
こうして、清田町連火葬場特別委員会は、地域住民としてだれ一人好む施設ではない火葬場を受け入れる際の「条件」を、真剣に検討するようになっていきました。
そして、「大都市札幌の中で清田地区は開発が遅れている」として、様々なインフラ投資やまちづくり施策を札幌市が清田地区で行うことを「受け入れ条件」としたのです。
当時の清田地区の地域代表たちは、里塚霊園と里塚斎場だけでは清田地区は「墓地と火葬場のまち」になってしまうという相当な危機感があったのでしょう。
その条件というのが次の14項目です。
1 清田分区の確立計画
2 地下鉄東豊線の早期完成促進
3 羊ケ丘通、北野通の整備促進
4 清田地区上下水道整備の早期実現
5 東部開発事業の促進
6 区民センター及び体育館の建設
7 総合運動公園の建設
8 西山造林地内スキー場及びキャンプ場の建設
9 公立大学等の誘致
10 老人娯楽施設の建設
11 球技広場の建設
12 将来計画に基づく市街化区域の編入促進
13 厚別川周辺の計画整備
14 区画整理事業の計画促進
清田地区町内会連合会は昭和55年(1980年)12月、この14項目を火葬場受け入れの条件として板垣市長(当時)に要望しました。
当時の清田町連の資料によると、板垣市長は「火葬場建設を了承してくだされば、要望に対して全力を尽くして実現化に努力する」と回答しました。ただし、「膨大な予算が必要とされるので、多年に亙る項目もあることを了承願いたい」と付け加えたといいます。
この市長の回答について、清田町連は町内会長会議などを再三開いて協議、検討した結果、「清田地区百年の大計の見地から、火葬場受け入れはやむを得ないとの意見が多くなり、最終的に特別委員会に一任」しました。
そして、昭和56年(1981年)3月7日、清田町連火葬場特別委員会は「板垣市長はじめ川崎助役(当時)、豊平区長、厚生局長ほか関係役職者が14項目の要望に対して積極的な姿勢がみられること、そして施設は公害となる要素が考えられないことから、地域の将来の発展のために火葬場建設はやむを得ない」との決議を行いました。
この決定を2日後の昭和56年(1981年)3月9日、清田町連は札幌市に対し「条件付き建設同意」として回答しました。
こうして当時の地元代表および地域住民は苦労の末、火葬場建設を条件付きで受け入れたのです。

現里塚斎場が里塚霊園の一番奥(地図下)に見える。中央にある円い形が、札幌市が新斎場を建設しようとしている円形広場=あしりべつ郷土館・札幌道路地図(株)チセイ堂より
当時の14項目の条件のうち、「清田区の分区」や「羊ケ丘通、北野通の整備促進」「東部開発」(平岡公園東、里塚緑が丘、平岡などの住宅地建設)、「区民センターの建設」、「上下水道の整備」など実現しているものが結構ありますが、まったく実現していないものもあります。

地下鉄東豊線建設促進期成会連合会は今年10月、秋元市長に地下鉄清田延伸を要望した際、「里塚斎場建設当時の約束である地下鉄延伸を反故にしたまま新たな斎場建設は認められない」と申し入れた
なかでも、「地下鉄を清田まで通す」とした条件が実現していないこと、これが今も地域住民にとって最も大きな不満になっており、「里塚斎場を造るとき、市は地下鉄を清田まで通すと言っていたのに」と、清田区では今日までずうっと語り継がれているのです。
こうした当時の地元住民の苦悩や経緯を振り返ってみると、今回、札幌市が「他の候補地」を一切検討することもなく、そして無条件で「里塚にまた斎場を造らせてくれ」と言ってきたのが、いかに不躾で無遠慮かが分かります。
新斎場を里塚に再び造るというなら、まず地下鉄清田延伸の約束を守ってもらいたい。清田区の各町内会連合会会長はみな、そう言っています。それがこの地域の先人たちが苦渋の決断で里塚斎場を受け入れた条件だったからです。

里塚霊園円形広場
新斎場は、現里塚斎場より約500mも住宅街側に接近した場所(円形広場)に建てる計画で、住民は「全く受け入れられない」「断固反対」と強く反発、一歩も引き下がらない構えです。
現里塚斎場ができた当時、周囲には住宅がほとんどありませんでしたが、今は里塚霊園の際まで住宅がびっしりと建ち並んでいます。こうした状況変化を全く考慮しない無謀なやり方に、住民は反発を強めています。
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