元札幌市長の桂信雄さんが11月16日、病気でお亡くなりになりました。90歳でした。桂さんは札幌市長時代、清田区を創設(1997年)したほか、札幌コンサートホール・キタラの開設(1997年)、札幌ドームの建設(2001年)とサッカーワールドカップの招致、プロ野球日本ハムの誘致等々、数々の功績を残した市長でした。

 そして、最後まで地下鉄東豊線を清田区まで延長することに執念を燃やした市長でした。

 「とても正直な人だった」「派手なパフォーマンスを嫌った」「実直な人柄」。桂さん逝去を伝える北海道新聞は、このように桂さんのお人柄を伝えました。地味だったかもしれませんが、決して偉ぶることのない誠実なお人柄でした。

 清田区を創設し、札幌ドームを建設した桂さんは、札幌市の東南部、清田区方面に市政の光を当ててくれた市長でした。この方面に札幌市の発展の芽があることを見抜いていたのだと思います。

 桂さんが市長を務めた時代(1991年~2003年)は、バブル経済が崩壊し、北海道拓殖銀行が経営破綻(1997年)するなど大変な時代でした。その中にあって、キタラの開設、札幌ドームの建設とサッカーワールドカップの招致、日本ハムの誘致などの功績を上げました。

 そして、苦しい経済状況と財政事情の中でしたが、地下鉄東豊線の延長(豊水すすきの―福住、1994年10月)、地下鉄東西線の延長(琴似―宮の沢、1999年2月)を、市の地下鉄建設計画通り進めていきました。札幌市全体の均衡ある発展を期しての延長だったと思います。

 札幌市の地下鉄建設計画で、残ったのは東豊線の福住―清田の区間だけとなりました。

 そこで、桂市長は1999年3月、地下鉄東豊線福住―清田間(4.2㎞)の建設について市長の諮問機関「札幌市総合交通対策調査審議会」(総交審、会長:小林好宏元北大経済学部教授)を設け、検討を進めました。

 その結果、総交審は2001年4月、「清田方面への延長」を盛り込んだ最終答申をまとめ、桂市長に答申したのです。

 総交審会長の小林好宏元北大教授は、「清田が地域中心核として成長することからも採算性を確保できると考えられる」とコメントしました。

 市長の諮問機関は通常、市長の意思を反映して議論します。桂市長は、残る福住―清田間の地下鉄延伸を何とか実現したいという思いで、総交審を設けたのだと思います。

 総交審が「清田までの地下鉄延長」の答申をした際、桂市長は「21世紀の札幌にとって、マイカー偏重の社会からの脱却は必要なことであり、答申内容を踏まえて検討していきたい」と述べました(2001年4月28日、北海道新聞)。

 桂市長は、地下鉄を札幌の四方に伸ばすことで、札幌中心部に車をあふれさせない札幌市の絵姿を描いていたのだろうと思われます。

 清田までの地下鉄延長について、札幌市は市の長期計画に正式に載せ、市議会でも延長を明言してきました。これを信じて清田区に家を建て、移り住んできた区民は大勢います。桂さんはこうした過去の経緯への責任も感じていたのかもしれません。

 桂さんの頭の中には、区役所のある清田地区まで地下鉄を延長し、地下鉄清田駅を核にバスターミナルを形成し、文化施設、商業施設、マンションなどを集積させ、地域中心核(地域交流拠点)を形成する絵姿があったと思われます。

 また、自らが創設した清田区を、北広島、恵庭、千歳に連なる発展可能性のある地域として都市デッサンを描いていたと思われます。そうした将来を見据えた札幌市全体の都市デッサンをお持ちの市長だったように思います。

 桂さんは2003年に退任し、上田文雄市長(2003年~2015年)に交代しました。上田市長は、地下鉄東豊線の清田延伸をあっさりと凍結してしまいました。

 清田区誕生から20年余り。地下鉄延伸は実現せず、清田地区の地域中心核(地域交流拠点)形成もまったく進んでいません。清田区を創設した桂さんは、きっと残念に思っていたと思います。

 桂さんの記帳が、札幌市中央区北4条西16丁目、第一ビル3階で12月23日まで行われています。時間は10時~15時(12時~13時除く)です。

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