明治時代、清田、北野、大谷地一帯を広大な水田地帯に変えた灌漑用水路「吉田用水」の痕跡が、札幌市清田区北野3条3丁目に帯状の緑地帯として残っています。今は看板もなく地元の人も、この帯状の緑地が何だったのか知る人はほとんどいません。
清田区は、歴史的建造物等の歴史遺産の乏しい区です。その中にあって、「吉田用水」は唯一、清田区に残る貴重な歴史遺産、産業遺産といえます。
この「吉田用水」跡を清田区の「ふるさと遺産」に追加し、現地に案内板を立て、できれば長さ10メートルほどでもいいから、先人たちが苦労して掘った素掘りの用水路を一部復元、保存してはいかがでしょうか。
■吉田用水とは
吉田用水とは一体何なのか、どこにどのようにできたのか、今日の清田区にとってどれだけ大きな歴史的価値があるのかといったことを、当時の文献資料等を丹念に調べ、その詳細を明らかにしたのは、元清田小学校校長で郷土史家の了寛紀明氏(清田区在住)です。
吉田用水が出来たのは明治25年(1892年)頃です。
当時、この付近で牧場や農場を経営していた吉田善太郎さんという人が、近隣の諸橋亀吉さん、山崎銀之助さん、山本喜兵衛さんらの農家仲間と協力して造った水田用水路です。
了寛氏によると、吉田用水は、今の北海道コカ・コーラボトリング(清田1条1丁目)駐車場付近を蛇行して流れていた厚別川(あしりべつ川)から取水し、北野、大谷地一帯に水を送りました。延長は5キロもありました。
機械のない時代に、吉田善太郎さんと諸橋亀吉さんが中心になり、幅4メートル、深さ2メートル、延長5キロメートルの水路を、地主、小作人40~50名がスコップと島田鍬による手掘りで、4カ月で完成させたと言います。大きな切株や笹の根が至る所にあって、作業は大変だったようです。
当時のお金で2600余円を投じたそうで、吉田善太郎さんと諸橋亀吉さんの2人が費用を負担しました。当時としては大金だったことでしょう。
この用水路の完成で、水田が一気に100ヘクタールも増え、地区の水田作りが大きく伸びました。
北野地区は、この吉田用水により農家が増え、集落が形成されるようになりました。また北野には、一時、水稲試験場も設けられ、北海道の稲作の発展に貢献する地域にもなりました。
■清田の地名の由来をたどると…
昭和19年(1944年)、明治の開拓期以来「あしりべつ」と呼ばれてきた地域は「清田」に地名変更になりました。これは「美しく清らかな水田地帯」であったことから名づけられた地名で、その地名の由来になった水田地帯の形成に大きく貢献したのが「吉田用水」だったというわけです。
清田という地名は、歴史をたどれ「吉田用水」と無縁ではあり得ないのです。
■吉田用水のルート
では、吉田用水はどこを流れていたのでしょうか。
了寛氏によると、用水路の経路は、厚別川の取水口→北野中学校横→北野通越える→北野第一公園横(北野3条3丁目)→清田通沿いに北進→東北通超える→南郷通超える→大谷地小学校東側付近→国道12号線超える→大谷地緑地(白石区本通17丁目北13)→札幌新道超える→函館本線手前まで北進→右折して厚別川へ至る―だったといいます。
その後、明治27年(1894年)には第2用水路が完成。さらに北郷地域の要望があり、明治30年代以降、厚別川から取水して月寒川に注ぐ用水路なども造られ、一帯は広大な水田地帯になっていったと言います。
なお、清田区と豊平区の境を吉田川という川が流れています。この川は北海道農業研究センター方面からの流れてくる自然の川で、用水路ではありません。吉田用水とは無関係です。ただし、この吉田川も吉田善太郎さんの功績を讃えて命名されました。
■昭和45年、役目を終える
時代が移り変わり、昭和40年代から清田、北野、大谷地では宅地化が進み、昭和45年(1970年)頃には水田が無くなり、吉田用水は役目を終えました。昭和48年(1973年)10月、最後の水田農家八十島勝義さんが離農するのを機に、吉田用水を管理していた用水組合は解散しました。
「清田地区百年史」(昭和51年発行)によると、用水組合の解散は定山渓で行ったそうです。みんなで温泉につかり、お酒でも飲みながら先人の苦労を偲んだのでしょうか。当時の古老の話が「清田地区百年史」に載っています。
「私の父からよく聞かされたが、この用水はずいぶん苦労して造ったもので、北野はこの用水掘りから部落が出来た」「昭和45年には水田をつくる人もいなくなったので、用水組合の解散を定山渓でした。用水地は開発局の方に買い取ってもらった。父や爺さん達が苦労して造った用水を手放したのは、なんとなく心淋しさがあった」
また、毎年春には用水路の手入れ作業をみんなで行ったようで、用水路を中心に地域の農家がつながっていた様子がうかがわれる記載もあります。
「終戦までは田植えや水かけ時に、川で魚を釣り、焚火で焼いては酒のさかなにして一杯飲んだもので、ここ(用水路)でみんなと米作りの話に花を咲かせた。楽しい場所でもあり、ひとときでした」
■全長500メートル 吉田用水跡を歩く
全長5キロメートルあった吉田用水ですが、ほとんどは埋められて跡形もありません。しかし、今もその痕跡が清田区北野3条3丁目に長さ500メートルに渡って残っているのです。
ただし、この事実は、ほとんどの清田区民に知られていません。
案内板も何もないから無理はありません。地域の人も「ここは何だったんだろう」という人がほとんどです。
こここそが、清田区を水田地帯として発展させた「吉田用水」の跡なのです。
現地に行って、北野中学校の向かい側から吉田用水跡に入ってみました。幅8メートルほどの緑地帯です。樹木もあります。周囲は住宅街です。
金属製の蓋のついた排水溝が1本設置されていて、吉田用水跡の緑地帯の中を伸びています。
ここは現在、札幌市が管理する河川扱いになっています。ただし、排水溝を含めて水は全く流れていません。
やがて生活道路を1本渡って、北野第一公園横に出ました。ここから吉田用水跡は幅が広がります。横幅20メートルほどはあるでしょうか。樹木はなくなり、草地が続きます。
もう1本生活道路を渡って、しばらく行くと行き止まりになります。そこが吉田用水跡の終点です。
この吉田用水跡は、冬の間は近所の住民の雪置き場になっています。ほかは何も使われていないようです。
この吉田用水跡の緑地帯は、上流側から見て左側は500メートルにわたってすべて石垣になっています。この石垣がいつ、どういう経緯でつくられたのかは不明です。
■一部復元を!
北野第一公園は、吉田用水と境がありません。一体化しています。ここに、幅4メートル、深さ2メートル、長さ10メートルほどの吉田用水を復元し、そのうえで全長を保存してはいかがでしょうか。説明版も付けます。
北海道コカ・コーラボトリング駐車場裏の厚別川左岸道路わきに、「吉田用水の碑」がぽつんと立っています。大正8年(1919年)に白石用水組合の発案で建立された碑です。
この石碑は割と知られていますが、吉田用水跡が今もくっきりと残っていることを知っている人は地元でもほとんどいません。もったいないです。
■清田ふるさと遺産に追加を!
清田区は、平成19年(2007年)に区誕生10周年を記念して12の「清田ふるさと遺産」を決めました(注)。この中に、吉田用水跡はありません。ぜひ、吉田用水跡も入れたら良いと思います。吉田用水跡こそ「清田ふるさと遺産」にふさわしい地域の歴史遺産です。
2023年は、今の清田小学校付近に最初の和人として長岡重治翁が入植してから150年になります。吉田用水の復元・保存は、清田区150年の記念事業としても良いと思います。
(注)12の清田ふるさと遺産
白旗山、あしりべつ川、あしりべつ郷土館、厚別神社、平岡公園、平岡樹芸センター、有明の滝、清田南公園、北野たかくら緑地、旧道沿いの原風景(レンガ倉庫、桜並木、清田緑地など)、住宅街に残る原風景、清田の水を生かした食品産業(飲料、食品製造工場)
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