札幌の街を抒情豊かな歌詞とメロディーで歌った名曲「時計台のある街」。清田区を拠点に各地域で「歌う会」や「歌声喫茶」を開催している「歌声ボランティアふれあいサポート」代表の園部真人さん(元小学校校長)が、この隠れた名曲を広める活動を始めました。

「きよた灯りカフェ」で歌う浅沼修さん=2023年2月4日、清田区役所で
「時計台のある街」は、北海道のフォークソングの草分け的存在である浅沼修さん(札幌市西区在住)が昭和42年(1967年)に作詞作曲して発表した曲。当時、浅沼さんは札幌の高校生でした。

「きよた灯りカフェ」で一緒に歌う園部さん(左端)と浅沼さん(中央)
園部さんは昨年秋、ひょんなことでこの「時計台のある街」という歌を知り、その叙情豊かな歌に惹かれたそうです。
そして今年2月4日、清田区役所で開催された「きよた灯りカフェ」ミニコンサートのスペシャルゲストに浅沼さんを呼び、「時計台のある街」を歌ってもらいました。

大きな感動を呼んだ浅沼さんのライブ=2月4日、清田区役所
浅沼さんは、「時計台のある街」などオリジナル曲数曲をギターの弾き語りで歌いました。浅沼さんの歌には、どこか懐かしさや人の優しさが感じられ、癒されます。区役所1階ロビーを埋め尽くした人たちは感動に包まれ、「ブラボー」という掛け声がかかりました。
多くの人から「素晴らしかった」「また清田に来て歌を聴かせてほしい」という声が溢れました。

園部さん(左)と浅沼さん=里塚・美しが丘地区センターで
園部さんは、町内会や高齢者施設、お祭り、イベントなどで「歌う会」を催す活動を展開しています。唱歌や昔の歌謡曲を歌うことが多いのですが、最近は必ずこの「時計台のある街」も歌うことにしています。
浅沼修さんは高校時代、札幌と小樽のフォーク仲間とともに、伝説となる「SING OUT」という団体を結成、音楽活動を始めました。札幌で多くのオリジナル曲を作詞作曲し、フォークソングの黎明期にアマチュアのまま草分けとなりました。

札幌市時計台
その時に作った「時計台のある街」が、当時全盛だった各地のユースホステルで歌われ、広がっていきました。
そして昭和51年(1976年)、芹洋子さんが作者不詳のまま「時計台の鐘の鳴る街」というタイトルでレコーディングし、ダークダックスにも歌い継がれました。
昭和54(1954)年にはSTVの喜瀬ひろしさんがリリースし注目されました。この時初めて作詞作曲が浅沼修さんであることが明かされたそうです。
浅沼さんはプロ歌手になることはありませんでしたが、2000年以降、時計台ホールなどでライブ活動を再開しました。
そして2011年、高校時代の音楽仲間である安田裕実さん(小樽出身、ギタリスト、作編曲者、シンガーソングライター山崎ハコさんの夫、2020年没)と約40年ぶりに再開し、安田さんの編曲、ギターで初のCD(「時計台のある街」など13曲収録)をリリースしました。浅沼さん、遅咲きのCDデビューでした。
その後、浅沼さんは安田さんや山崎ハコさんとも札幌でライブ活動を行っていました。その様子がいくつかYOUTUBEにアップされています。
安田さんは、井上陽水さんのデビュー当時を支えたバックギタリストとして有名です。さらに小室等さんの六文銭や小椋佳さんのフライング・キティ・バンドのメンバーとしても活動したミュージシャンでした。その安田さんは、浅沼さんの「時計台のある街」などの楽曲を高く評価していました。
「時計台のある街」の歌詞に「いつか帰ろう 僕のふるさと 時計台の 鐘の鳴る街へ」というフレーズがあるように、この歌には望郷の香りがあります。
そんなことからか、浅沼修さんは、昭和の望郷歌謡の名曲「別れの一本杉」(春日八郎さん、昭和30年)や「リンゴ村から」(昭和31年、三橋美智也さん)なども「フォークソングだったのではないか。日本人の琴線に触れるいい歌ですよ」と面白いことを言います。確かに、そうかもしれませんね。

札幌市時計台内に置かれている「時計台のある街」のCD。誰でも無料で持ち帰ることができる
浅沼さんは昨年5月から、札幌市時計台内に「時計台のある街」のCDを置いて、無料で自由に持ち帰ってもらっています。この歌が歌い継がれていってほしいという願いからです。既にかなりの枚数が配布されています。
日本最古の歌集「万葉集」には、詠み人知らずの和歌が数多くあります。浅沼さんは「僕も『時計台のある街』で、今の時代に詠み人知らずの『万葉の歌人』になれたような気持ちです」と話しています。
また清田区に来て、「時計台のある街」を歌ってほしいですね。
「時計台のある街」の歌詞は、こちらをご覧ください。
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