
平岡南公園前にある「三里塚」碑と説明板。その後の郷土史研究で、設置場所を含めて間違いが多いことが分かってきた
里塚・美しが丘地区センターは10月10日(金)、まち歩き講座「三里塚歴史さんぽ」を開催しました。「里塚」の地名の基になった「三里塚」の歴史に触れながら、旧道を歩きました。

「三里塚」碑を見学する「三里塚歴史さんぽ」参加者
同地区センターとあしりべつ郷土館がコラボして開催したもので、21名の区民が参加しました。
講師は、あしりべつ郷土館運営企画委員の了寛紀明さん(郷土史家)と川島亨さん(「ひろまある清田」代表)。

参加者に説明する了寛紀明さん
参加者は、旧道に面した平岡南公園(平岡2条6丁目)前の「三里塚」碑の前に集合。ここでまず、「三里塚」碑について、了寛さんと川島さんからお話がありました。
それによると、ここに建つ「三里塚」碑は、三里塚とは無関係の所に建っているとのことです。
三里塚(三里標)は明治6年(1873年)、開拓使が札幌本道(札幌―室蘭―函館、清田区内は今の旧道=国道36号のルーツ)を開削した際に、1里(4㎞)ごとに建てた里程標の一つです。札幌中心部から3里(12㎞)の標識です。

開拓使「新道出来形絵図」(明治6年)の三里塚付近。札幌本道(今の旧道)の三里川ほとりに三里標が描かれている。三里川には橋が架けられている。橋の右側(上流側)の三里川は今は暗渠になっている。2018年の地震では、概ね暗渠になっている三里川に沿って地盤沈下した
開拓使が建てた三里標は、この「三里塚」石碑から約300m里塚方向に行った三里川のほとりにありました。これは開拓使の記録「新道出来形絵図」にはっきりと書かれているのでまちがいありません。
では、なぜ間違った場所に「三里塚」碑は建てられてしまったのでしょうか。
この「三里塚」石碑は2004年、三里塚小学校百周年記念事業協賛会の皆さんが建てたものです。ところが、この協賛会の皆さんは明治6年に開拓使が三里川ほとりに三里標を建てた歴史的事実を知らなかったのです。
協賛会の皆さんも大変熱心に三里標があった場所を調査したのですが、残念ながら「新道出来形絵図」の存在に気付かず、明治6年に三里標が建てられた事実を知ることが出来なかったのです。

後年、建て替えられ、昭和20年代まであったとされる「三里標」はこの辺りにあった(平岡2条4丁目)
このため、当時の古老の記憶と話から「三里標は今の平岡2条4丁目の旧道角地にあった」と認識していたのです。
そして、三里塚小学校百周年記念事業協賛会の皆さんは「三里塚」碑をこの平岡2条4丁目に建てようとしましたが、周囲が民地のため諦め、市有地の平岡南公園前に設置したという次第です。
実は、平岡2条4丁目にあった三里標は後年、建て替えられたものです。明治14年(1881年)、明治天皇御巡幸の際に建て替えられたとの説がありますが、いつ建て替えられたのかは、裏付ける一次資料がなく、はっきりしません。なぜ、本来の三里塚から遠く離れた平岡に建てられたのかも分かっておらず、謎になっています。
この建て替えられた三里標は、開拓使が明治6年に建てた三里標から1000mも札幌寄りにありました。ここは「平岡」であり、到底「三里塚」ではありません。三里塚小学校百周年記念事業協賛会の皆さんも、三里川や三里塚小学校、三里塚公園、三里塚神社などから遠く、おかしいなと思っていたといいます。
この建て替えられた三里標は、終戦後の昭和20年代までありました。古老の中には、この場所の記憶があったのです。
平岡南公園前の「三里塚」碑の説明文も間違っています。説明文によれば、三里標は「明治14年の明治天皇北海道御巡幸に先立ち」「石碑が建つ現在地より約700m西より(札幌寄り=平岡2条4丁目)に設置された」と書かれています。
明治6年に開拓使が建てた三里標のことは全く書かれていません。三里塚という地名(昭和19年、三里塚から里塚に改称)の根拠は、明治6年設置の三里塚(三里標)だったのに、全く触れられていないのは、歴史の案内板としては欠陥品で致命的です。

明治6年、開拓使が設置した三里標があった付近=三里川ほとり
さて、「三里塚歴史さんぽ」の参加者一行は、「三里塚」碑から約300m里塚方向に歩いて、三里川ほとり(里塚2条2丁目)にやって来ました。
「三里塚」は本来、この場所に建てるべきだったのです。移転が可能なら移転すべきでしょう。

三里標があった付近=里塚2条2丁目
札幌市内や近郊の郷土史研究家などのブログや文章等を見ると、「三里塚は、平岡南公園付近にあった」との記載が目立つようになりました。間違った情報が拡散しているのです。

「桂台団地」バス停は昭和57年頃まで「三里塚」バス停だった
この付近は2018年9月の北海道胆振東部地震で液状化による宅地崩壊の被害が発生したところです。三里川は、旧道から上流方向は暗渠になっており、昔の川筋は分からなくなっていますが、地下の水みちは残っているということでしょうか。
了寛さんは、昔の三里川の川筋のお話をし、参加者は興味深そうに聞いていました。

今も公園名に「三里塚」が残る三里塚公園

同じく三里塚小学校

了寛さんによる三里塚と清田の歴史のお話し=里塚・美しが丘地区センター
一行は、さらに三里塚公園(里塚2条6丁目)まで歩いて、里塚・美しが丘地区センター(里塚2条5丁目)に到着。同地区センターでは、了寛さんが清田の歴史のお話をして、さらに地域に伝わる「里塚小唄」の動画をみんなで見て、「三里塚歴史さんぽ」を終えました。
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