住宅や商業施設、病院、公共施設などが建ち並ぶ清田区北野から豊平区月寒東にかけての地域。ここにかつて東京以北随一の本格的なゴルフ場がありました。その名は札幌ゴルフ倶楽部月寒(つきさっぷ)リンクス(月寒ゴルフ場)。今の札幌ゴルフ倶楽部(北広島市輪厚)の前身です。

かつての月寒ゴルフ場(「豊平町写真帖」より=札幌市中央図書館所蔵)

 清田区の郷土史家で清田幼稚園園長の了寛(りょうかん)紀明さんの研究レポート「清田発掘「北野にあった『月寒ゴルフ場』」等によると、月寒リンクスのあらましは概ね次の通りだったようです。

北海道らしい広々としたコース(出典「観光の札幌」)

 月寒リンクスは昭和7年に開場した18ホール(アウト2955ヤード、イン3085ヤード、パー72)の本格的なゴルフ場でした。

 当時、銭函に昭和3年に開場した小樽カントリー倶楽部がありましたが、札幌のゴルフ愛好者らの間で「自分たちのゴルフ倶楽部をつくろう」という声が上がり、月寒リンクスを造ったといいます。

 会員は100人ほどで、札幌の財界人や学者、高級官吏たちが主にプレーしたそうです。

緑の線で囲まれた所に月寒リンクスがあったと思われる(了寛紀明さん「北野にあった『月寒ゴルフ場』」より)

 了寛さんによると、月寒リンクスの位置は、概ね清田区側は今の北野1条1丁目、同2丁目、北野2条1丁目、同2丁目、さらに北野通りを越えて北野3条1丁目。豊平区側は月寒東1条20丁目、月寒東2条20丁目、北野通りを越えて吉田川公園の南半分。

 ゴルフ場内の西側を吉田川が南北に流れ、北野側は今の旧道の坂下広場近くまで敷地が伸びていました。北野の光円寺や北野墓地はゴルフ場の外側に隣接する位置にあったようです。今の豊平区体育館(月寒東2条20丁目)は、すっぽりとかつてのゴルフ場の敷地内に入っています。

ティーショットの様子(出典「GOLF IN HOKKAIDO」)

 月寒リンクスは今の国道36号線の北側に約70ha(52haという説も)という広大な敷地にありました。

しゃれたクラブハウス(札幌市公文書館所蔵)

 国道を挟んだ向かい側には、農務省月寒種羊場(現在、北海道農業研究センター)があり、北海道らしい雄大な風景が広がる「空気清澄、風光明媚」なゴルフ場だったといいます。

 クラブハウスは、洋風で牧舎風のしゃれた建物でした。今の国道36号線沿いのつきさむ温泉付近にあったといいます。

 月寒リンクスがあった土地は、明治、大正時代は嵯峨牧場という牧場だった所で、昭和に入り北海道拓殖銀行の所有地になっていました。それを札幌ゴルフ倶楽部が借り受けてゴルフ場を造成したのです。

ゴルフ場も描かれた「札幌市鳥瞰図」の一部(札幌市公文書館)

 ところが、この東京以北随一の本格的なゴルフ場は、戦争の激化に伴い10年ほどで姿を消してしまいます。戦争とともに、月寒リンクスでゴルフをプレーするのはだんだんと難しくなったようです。昭和18年、月寒リンクスは閉鎖となり、食料確保のための畑になってしまいました。

 戦後、ゴルフ場は復活することはありませんでした。北野地区町内会連合会のホームページ「上北野町内会」によると、戦後、このゴルフ場跡地は農地として開放されました。昭和30年代~40年代以降、農地から宅地へと大きく変化していき、やがて今日のような住宅街になりました。

札幌ゴルフ倶楽部=北広島市輪厚

 札幌ゴルフ倶楽部は昭和33年、北広島市輪厚にゴルフコースを完成させました。小樽カントリー倶楽部と並ぶ北海道の2大名門ゴルフ場です。その前身は月寒リンクスでした。

 札幌ゴルフ倶楽部のホームページに次のような記載があります。

「札幌ゴルフ倶楽部の歴史は、戦前の昭和7年に遡ります。当時、小樽カントリー倶楽部がありましたが、札幌のゴルフ愛好家たちにより自分たちの倶楽部をということで、国道36号線現在の中央バスのあたりに月寒リンクスを造りました」

 清田区北野の一角には、かつて東京以北随一の本格的なゴルフ場があったのです。地域には、いろんな歴史が埋もれていますね。

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