清田区発祥の地である清田小学校(清田1条4丁目)周辺の碑や歴史の痕跡を訪ね歩く「清田区まち歩き講座」が6月24日(土)、行われました。12人が参加し、郷土史家らから説明を聞きながら歴史散歩を楽しみました。
この催しは清田区民センターが主催し、あしりべつ郷土館の協力で実現した初めての取り組みです。
今年は、清田地域の最初の入植からちょうど150周年という節目の年でもあり、その記念行事的意味合いもありました。
参加者は、清田区民センター2階のあしりべつ郷土館に集合し、そこから出発。清田公園、厚別川(あしりべつ川)右岸堤防、厚別橋(あしりべつ橋)を歩き、清田小学校前へ。
途中、厚別川堤防では、かつて蛇行して氾濫を繰り返した厚別川の直線化工事(昭和30年代~40年代)の歴史や、対岸の吉田用水記念碑を見ながら、清田地域を水田地帯に変えた「吉田用水」(明治25年頃完成)の説明を聞きました。
また、今の清田公園は、かつて蛇行した厚別川が流れていたところでした。こうした説明に参加した人たちは驚き、また興味を持ったようです。
この日、説明役を務めたのは、郷土史家の了寛紀明さんと北海道文化財保護協会副理事長の田山修三さん、それに地域メディア「ひろまある清田」代表の川島亨さんです。
清田小学校前では、大きな開拓功労碑を見物しました。今から150年前の明治6年(1873年)、この開拓功労碑がある今の清田小学校付近に岩手県人、長岡重治が最初に入植、開墾を始めました。
長岡重治は駅逓、旅館、木材業を経営し、水田を創設し、自費で道路・橋を造り、神社を興し、学校を造るなど清田地域の基礎をつくりました。
重治の子、孫らの子孫も地域の発展に務め、その功労を称える目的で、この開拓功労碑が昭和22年(1947年)建立されました。
清田小学校の校庭の一角に「ゆめ田んぼ・あしりべつ」という水田があります。これは、かつてこの地域が水田地帯であったことを今に伝えようと、札幌清田ライオンズクラブが寄贈したものです。毎年、清田小児童が田植えと稲刈り体験をしています。
清田小学校前を通る道路(旧道=旧国道36号)は、もともとは明治6年(1873年)に完成した「札幌本道」と呼ばれる幹線道路でした。この道路沿いに、かつては休泊所(旅館)、清田郵便局(今の地域さろん「ぽっけ」)、あしりべつ最初の診療所、長岡商店、清田消防署、公民館、清田出張所などが建ち並び、この辺りが清田の中心地だったと、了寛さんは説明しました。
一行は、この後、厚別神社(あしりべつ神社)まで歩き、境内で三橋宮司さんから神社の歴史をうかがいました。
今の神社本殿(昭和45年=1970年造営)の右奥に、大正6年(1917年)に造営された旧厚別神社本殿がひっそりと保存されています。これも清田区の貴重な歴史遺産です。参加者は、了寛さんから旧本殿について詳しい話を熱心に聞いていました。
神社境内には、忠魂碑があり、日露戦争の戦没者を記念するため大正6年(1917年)に建立され、その後、太平洋戦争の戦没者も含まれるようになったとのことです。対象の戦没者は80名になると宮司さんからお話がありました。
境内にある「清田会館の跡」碑や「上相撲記念」碑などの解説も、それぞれの碑の前で行われました。
最後に、参加者は清田緑地に向かいました。この一角の森の中に「厚別神社発祥の地」碑(明治の初めに建った厚別神社のルーツ)があります。また、近くには長岡家の小さな祠があり、赤い鳥居が森の木々の間に見えました。
清田緑地の散策路をさらに登っていくと、木々が生い茂っていますが、比較的平らなところに出ました。了寛さんの説明では、大正6年(1917年)造営の旧厚別神社は、この清田緑地の森の中の比較的平らなところにあったそうです。今の厚別神社は昭和45年(1970年)に現在地に新たに造営されたものです。
参加者は清田緑地の中を抜けて再び清田区民センター2階のあしりべつ郷土館に戻りました。約2時間の歴史散歩でした。
参加者からは「郷土の歴史を伝えるものを実際に自分の目で見て、詳しい話も聞けて、とても良かった」「身近な歴史を感じることができた」「先人の人たちの苦労を知り、とても良かった」等々、大変、好評だったようです。
清田区民センターでは、「今後も歴史散歩のまち歩き講座を検討したい」としています。
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